« コハク | メイン | バラージジャマーに相当する »

長篠の戦いから越前侵攻

天正3年(1575年)4月、武田勝頼は父・信玄の死後、武田氏より離反し徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する[10]。 この戦いで武田氏の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は、信長より偏諱を賜り信昌と改名している。
ダンディハウス
とん吉のとんかつ
ハッピー・マンデー
ひなたのスポーツ観戦
フロンティア物語
マナの樹
やきそばマン
ローズマリー
杏の山菜取り
黄金虫

前年に信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたが、この下間頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。

これに対して既に内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐されたと言われている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.bisubh.com/blog/mt-tb.cgi/694

About

2009年11月13日 14:19に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「コハク」です。

次の投稿は「バラージジャマーに相当する」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35